旅行・地域

2014年12月29日 (月)

「戦国時代の始まりと終わりを飾った城  韮山城」

皆さんこんにちは

今月は北条五代をたくさん訪ねました。今回は韮山城です。一緒に歩いてみましょう

 韮山城は・・・・

Cimg1753明応2年(1493年)伊豆に侵攻した伊勢宗瑞(通称北条早雲)によって本格的に築城され、およそ100年にわたって存続した中世城郭です

 韮山城跡は・・・・

宗瑞は伊豆韮山の堀越公方を攻め伊豆に進出しました。伊豆国を平定した宗瑞は堀越御所の丘陵を中心に韮山城を整備し、自らの本城と定めました。 宗瑞の死後、2代目の氏綱は北条氏と改姓し,相模国小田原に本拠の城を移したため、韮山城は伊豆地域を治める支城となりました。  しかし、韮山城は今川氏・武田氏など西側大名に対する防御拠点として、重要な城でした。

 ついの住み家とした韮山城

堀越御所を落とした宗瑞は御所に入らず、堀越御所の東側の天ヶ岳(山頂部128m)尾根の丘陵地に韮山城を築きました。 戦いで御所が焼け落ちたせいもあり、堀越公方の家臣の入っていた城を改修して韮山城としたといいます。大規模な城づくりが行われたようで、韮山城には幾つもの砦があり、平時の「館部分」と戦時の「詰めの城」の二重構造からなる堅固なつくりをしていました。韮山は伊豆を抑え込むにも、甲斐の武田家をにらむにもふさわしい土地であり、宗瑞は終生この城を本拠としました。

 韮山城の攻防

Cimg1756室町幕府8代将軍足利義政の時代、幕府は関東公方の反抗勢力を抑えるために、義政の弟(一説には兄)足利政知を関東に向かわせました。  関東の抵抗が強く箱根を越えることが出来ず、韮山堀越の地に館を構えたのが「堀越御所」です。

その後、政知が亡くなると堀越御所に相続争いが起こり、政知の長男の「茶々丸」が義母とその子潤童子や家臣を殺害します。

この混乱に乗じ宗瑞は伊豆に侵攻し茶々丸を滅ぼしてしまいます。

 開城と廃城

天正18年(1590年)城主北条氏規は豊臣秀吉の小田原攻めでは、4万4千人の軍勢に囲まれましたが、3ヶ月にわたる籠城戦の末、6月24日に開城しました。 小田原城はその後7月5日開城しました。

北条氏滅亡後、韮山城は徳川氏の城へ変わり徳川家康の家臣内藤信成が城主となり、慶長6年(1601年)信成の駿府転封とともに韮山城は廃城となりました

 宗瑞 永遠の別れ・・・

Cimg1766

宗瑞は死の直前までカクシャクとし、歯も残り、耳も確か、老いを示すものは白髪のみであったといわれています。

そして・・・家督を譲った翌年の永正16年(1519年)苦しむこともなく、韮山城で眠るように息を引き取ったといいます。  伊豆の修禅寺で火葬された後、遺言によって氏綱が創建した箱根湯本の早雲寺に埋葬されました。

早雲寺には・・・早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直の北条五代の墓が静かにたたずんでいるといいます。(今年は無理なので来年是非お墓参りに行って来ますね)

 早雲(宗瑞)命名幻の酒とは・・・

Cimg1760江川家(早雲が伊豆に入る以前から韮山を治めていた)は韮山の領主であったと同時に酒造家でもあったといわれます。 「江川酒」という全国的に名高い酒を製造していたのですが実はこの江川酒の名付け親が早雲だそうです

3代氏康は5代の中でも無類の酒好きだったらしく気付け薬の代わりに寝起きに酒をたしなんでいたといいます。

又、今川家に振舞ったり、4代氏政が織田信長や上杉謙信に江川酒を贈呈した記録も有り戦国時代、数々の戦国大名ののどを潤してきたことがうかがい知れます。

「太閤記」にも江川酒が用意されたと記されています。韮山地区では江川酒を復活させようというロマンに満ちた試みがつづけられているそうです。

 戦国時代の始まりと終わりを飾った城 韮山城跡 百聞は一見に如かず・・・

Cimg1758
韮山城跡は現在では堀や土塁などの遺構が良好に残っています。 城内の早雲屋敷があった場所は今もその一帯は御座敷と呼ばれています。  

東側には豊臣軍の付城跡もあります。秀吉は城攻めが上手く山の上から見下ろしていたといいます。

近くには早雲が茶々丸を襲撃した伝堀越御所跡・鎌倉幕府の初代の執権北条時政が建立し時政自身や茶々丸の墓が並ぶ願成就院などの史跡もあります。又、早雲が伊豆に入る以前から韮山を治めていた江川家の屋敷跡もあります。

    すいません!! 今回もあつくあつく・・・語ってしまいました(ノ∀`)・゚・。 アヒャヒャヒャヒャ

      お天気最高の時に是非是非訪れて下さいね

      本丸跡から富士山が最高ですよ。

      今年も残り少なくなってきましたね、私のブログを見てくださった皆さん有難うご

      ざいました。それでは良いお年をお迎えくださいね~   

2014年12月24日 (水)

貴重な中世の山城 山中城跡

Cimg1831


皆さんこんにちはo(*^▽^*)o

足場の悪い雨のなか山中城跡に行って来ましたCimg1785


 日本百名城 山中城跡

 山中城跡は箱根西麓の尾根上に築城された山城です。城の範囲は東西500m、南北1000mに及びます。 昭和9年国の史跡として指定されています。

 山中城は、後北条氏が築城

  山中城は、戦国時代末期の永禄年間(1560年代)に、小田原に本城をおいた後北条氏が築城しました。その後天正17年豊臣秀吉と不仲となった、北条氏政は、秀吉の小田原攻めに備え急遽掘や岱崎出丸等の整備、増築を行いました。 しかし・・翌天正18年(1590年)3月29日増築が未完成のまま、70000ともいう豊臣軍の総攻撃を受けました。北条軍は推定4000で、必死の防戦もかいなく鉄砲と圧倒的兵力の前にわずか半日で落城したと伝えられています。

 山中城の戦い  1590年(天正18)3月29日

戦いの始まるその前・・・  秀吉の小田原平定がはじまる

豊臣秀吉が自ら3万2000の直属軍を率いて京都の聚楽第を出陣したのは1590年(天正18)3月1日である。秀吉の甥秀次はそれより前に2万の軍勢を率いて出陣しており、3月5日には駿の三枚橋(沼津)まで進んでいた。27日に秀吉も三枚橋に到着し、秀吉、秀次、それに徳川家康・織田信雄が加わり、軍議が開かれた。最初の攻撃目標を北条氏側最前線の城である山中城とし、早くも翌28日、山中城とその周辺の視察を行っている。山中城の中を東海道が貫通しているため、東海道を通って小田原に向かう以上、山中城はどうしても落とさなければならなかったからである

 岱崎出丸での戦い

  1590年3月29日 秀次隊を先陣とする豊臣軍の攻撃が始まった。戦いは本城部分、つまり主郭の方ではなく、岱崎出丸とよばれる出丸部分ではじまった。攻撃したのは、中村一氏・山内一豊・堀尾吉晴・一柳直末らで、城兵が盛んに鉄砲を撃ちかけたため、攻める側も容易に進めず、大将の一人一柳直末は鉄砲にあたって討死している。こうした、城攻めの臨場感あふれる描写が可能なのは、中村一氏隊の一番槍をつとめた渡辺勘兵衛という部将が「渡辺水庵覚書」という詳細な記録を残してくれていたからである。                      

 三の丸・二の丸落ちる

 なんとか岱崎出丸を落とした豊臣軍は、次に三の丸の攻撃にかかった。先陣として突入したのは、渡辺勘兵衛であり勘兵衛に続いた4人はたちまち鉄砲に撃たれ討ち死にしている。三の丸を落とし二の丸に攻めかかった。 勘兵衛は大きな杉の木にのぼり西の方をみて広間に200人ほどの武士がいて守備していたため、本丸だと思い攻め込んだとしている。

 西の丸落ちる

 渡辺勘兵衛が本丸だと思ったところは実際は西の丸だったが、城将松田康長らはそこを守っていた。防備の点で、本丸よりも西の丸の方を重視していたのである。渡辺勘兵衛がそちらを本丸と勘ちがいしたのも当然だったのかもしれません。豊臣軍はその西の丸に殺到した。槍によるたたきあいがしばらく続きついに豊臣軍が攻めのぼり籠城兵は掘に落ちていった。松田康長も首を落とされてしまい、山中城はその日のうちに落城した。

 掘障子に守られた山中城

 山中城は本丸・二の丸・三の丸・西の丸などを中心とした主郭部分と、出丸部分にあたる岱崎出丸とからなつている。 城の随所に、北条流築城技法などとよばれる掘障子が掘られている                           

Cimg1791 掘障子とは、障子掘と畝掘のことで、堀底に畝のように堀り残しの部分を設けており、1列に並んだものを畝堀という(左の写真)

2列以上のもので、障子のさんのように見えるところから障子堀という(下の写真)

敵によって堀底を道として利用されないための工夫でもあり、また落ちると容易にはいあがれないようになっていて、まさに蟻地獄をおもわせます。

 現在は畝堀や障子堀は崩れやすいため芝で                         Cimg1803_2
覆われています。当時は丸坊主の赤土の山で堀も現在より1m位深く、畝も今の半分の幅でした。堀は、から堀で赤土でつるつるして落ちたら容易にはいあがれなかったようで、狙い撃ちできたようです。
今の時期は芝は枯れて綺麗ではありませんが緑になると美しい景観がみられます。

 山の中に・・・水?

Cimg1787          箱井戸  山中城将兵の飲料水          
                                                                    

Cimg1831_2                                       田尻の池 馬のための水 

 山中城と同じ日のもうひとつの戦いとは

山中城の戦いがくり広げられた同じ3月29日、もう一つの防衛拠点である韮山城も攻められているが、韮山城の方は容易に落ちなかった。                               

山中城側の北条氏政・氏直父子としては足柄城ー山中城ー韮山城を結ぶラインで豊臣軍を防ぐ構えをしていたので、特に東海道が通る山中城は重視した。というより、東海道を押える形で山中城が築かれたといった方がいいかもしれない。東海道が山中城の中を通るしかけとなっていた。

 敵味方の武将の墓

Cimg1839

  三の丸にある宗閑寺境内には、城主松田康長、副将間宮康俊などの墓や、隣には豊臣方の武将一柳直末の敵味方の武将の墓がひっそりと苔むして並んでいます。

 

   山中城の戦い どうでしたか?おもわずあつく語らせて頂きました(・∀・)イイ!

    400年間埋もれていた山城の発掘調査を、昭和48年から開始して現在では山中城   
     
    史跡公園として開放されていますよ。芝がグリーンの季節に是非お出掛けください。

    畝堀・障子堀にはビックリしますよ。

    次の北条五代の探訪記お楽しみに  


                                                                           

2014年12月17日 (水)

八王子城は関東屈指の山城

Cimg1549_3皆さんこにちはo(*^▽^*)o

私のブログ待ってて頂き申し訳ありませんでした。念願だった八王子城跡に行って来ましたよ

歴史の転換となる合戦の舞台

 八王子城は、小田原に本拠をおいた後北条氏の、三代目氏康の三男、北条氏照が築いた山城です。

 八王子城跡は戦国時代末期の山城の特徴をよく残し、歴史の重要の舞台となったことから、2006年日本100名城の1つに選ばれました

1992年~の発掘調査では、八王子城城主北条氏照のやかた跡がみつかっています。       

はじめ滝山城(170m)に本拠を構えていましたが豊臣秀吉との戦にそなえるため敵が攻めにくく、少人数で守れる八王子城を築いたといわれます。八王子城は(460m)複雑な地形を利用して築かれました。

八王子城は、北条の城のなかでも大きな規模をほこり、重要な城でした。


                        

    
      戦国大名の暮らしぶり・・・

        御主殿を築き・・・館あとからは中国製の磁器、珍しいものではヴェネチア産(現

                   在のイタリア)のレースガラスが見つかりました。どうしてヴェ

                  
                   
        
Cimg1618ネチアのレースガラスのような高級なものが氏照のもとにあるのか・・・一説によると、織田信長の宝物であったようです。では、信長が持っているものが何故あるのか・・・八王子城の裏山に大鷹がいて、鷹狩りの鷹を信長に献上したのではないかといわれます。  (ヴェネチアグラスは21世紀でも世界の宝物です。ほかのガラス職人には、企業秘密のため教えないそうです。普通は一重ですが、二重になっている間にレース模様が入っている(ヴェネチア製)表も裏にもつなぎめ無しで不思議な技術にビックリしました。                 

430年前のヴェネチアグラスの破片34枚が見つかった。

戦いばかりしていたイメージの強い戦国大名ですが、一方で文化的な生活も営んでいたようですね。      

  

    天正18年6月22日夜~23日何が起こった!!

     天下統一をすすめていた豊臣秀吉は Cimg1553
   
 ついに北条と対決することになります。

前田利家と上杉景勝のひきいる数万の大軍が八王子城にせまっていました。秀吉は前田利家に小田原城で籠城を続ける北条氏にたいするみせしめとして八王子城を全滅させるよう命じた。この時氏照は主力部隊をつれて小田原城にたてこもっていたため、八王子城にはわずかな留守部隊しか残っていませんでした。こうして決戦のひぶたがきられたのです。豊臣勢は圧倒的な兵力にものをいわせ、攻め込みました。しかし、八王子城は攻めにくく少ない兵     力に  予想以上に抵抗にあいました。しかし決戦の末       曳橋             
八王子城は落城した。

 

   攻められにくい工夫・・・・

 

① 曳橋   

  戦いの時取りはずせば、敵が渡れない、当時の曳橋はちゃちなものであった。Cimg1579_3


② 虎口

  曲輪の出入り口。直進できないようにする 

 などして、侵入しづらい工夫がされている。

当時としては、安土城の虎口が日本一であった。奥行も長い。しかし八王子城の虎口はそれよりも3倍も5倍も豪壮である。曳橋を運よく渡り終えた兵は虎口に到達して上を見たとき戦威を喪失させたという。                      

この戦いからは逃げることができた・・・・                豪壮な虎口               

なぜなら兵は95%以上百姓の息子をかきあつめた。戦いに出してくれれば、今年の年貢は免除するということだった。昔の侍の平均身長は5尺で次の戦いにのぞむのは肉体的に無理があったという

   八王子城落城は戦国時代を終りにするきっかけとなった

    Cimg1574
御主殿に火がはなたれ、逃げ場を失った者たちは自害したといわれています。八王子城の落城は北条氏照の耳にも入った。八王子城落城ののち北条氏は降伏し、小田原城は豊臣秀吉にあけわたされた。                 
そして・・・氏照は、兄の氏政とともに秀吉から切腹を命じられました。こうして5代続いた北条氏は滅亡したのです。

北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は名実ともに天下統一を成し遂げます。

そして戦国時代という一つの時代が幕をおろし
          冠木門(かぶきもん)      たのです。 

                                                                

     八王子城跡に行った日は素晴らしいお天気に恵まれ紅葉も少し残っており、

        ガイドさんのガイドもすばらしく、楽しかったですよ。是非行ってきてください

        八王子ラーメンのお店が見つからず残念でしたが・・・スーパーで八王子インス  

        タントラーメンを買ってきて食べました。美味しかった(v^ー゜)ヤッタネ!!

        北条五代探訪記続きますよ~

 

2014年11月10日 (月)

北条美恵子のブログ

Cimg1490_2  今晩は☆彡昨日の続きです(o^-^o)
  

   その時沼津で何が起こったのか

  ○駿河湾海戦

   武田氏の沼津三枚橋城と北条氏の沼津

   長浜城が整備された翌年、駿河湾内で海

   戦が行われました。北条・武田両氏水軍 

   の間に、緊張が高まっていた天正年間で         

   すが、天正8年(1580年)ついに両者の間に      復元された長浜城跡

   駿河湾を舞台に大規模な海戦がおこりまし

   た。

   3月15日のまだ夜が明けきらない頃、武田方の軍船5艘による奇襲から戦いは始まりま

   した。鉄砲が飛び交う激戦を繰り広げたようですが、戦いは日没をむかえても決着はつ

   かず、引き分けに終わったように思われますが、北条方には「安宅」と呼ばれる50丁櫓   

   の大型軍船があり、武田方は大分苦戦したようです。

   4月25日に武田勝頼が武田水軍の小浜景隆・向井兵庫助に対して「伊豆沿岸の郷村を

   数か所撃破したうえに、敵船を奪った」ことを称えています。さらに翌年3月29日に起こっ

   た沼津市久料(伊豆久龍津)での海戦においても武田水軍が「敵船3艘を乗り沈め、凶

   徒数十人を討ち捕えた」との記述があることから、3月の開戦後しばらくは武田水軍が優

   勢だったことが伺えます。Cimg0473_2


  しかし織田・徳川連合軍が武田攻略作戦

  を進めると、これに呼応した北条軍も河東

  (かとう)地域一帯から武田軍を追いやる

   ことに成功します。武田軍はこの後盛り返

   すことはできず、滅亡へと進んでいきまし

      復元された長浜城跡             た。 

 

     天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めに際し、長浜城は再び緊張状態におか

     れます。北条方水軍は、初めは豊臣水軍の来襲に備え下田城に集結しますが、評 

     定の結果籠城策と決まったため、小田原の川岸と油壷に移動します。

     さて、北条水軍の去った後の長浜城ですが、ここには在地土豪、大川兵庫が城将

     として籠城したようです。その後長浜城では大した戦闘はなく、韮山開城とともに廃

     城になったものと考えられています。Cimg1502_2


     ○戦国時代の軍船です

       戦国時代の水上での戦闘には大き  

       さの異なる軍船がそれぞれの役割

       を持って活躍しました

       「小早船

       その名のとおりスピードの出る小さ

       な船で、素早く相手に近づき、焙烙      

       玉(素焼きの器に火薬を詰めたも

       の)を投げ込んで敵船を破壊したり

       かぎずめのような道具で敵を落とし

       たりして戦いました

       「安宅船

       戦いに鉄砲が導入されるようになっ

       て、相手を狙いやすく、どっしりとした安定感のある大型船として戦国時代の後半

       に登場しました。戦い方には相手の船に横付けして乗り込む旧来からの戦闘方

       法以外にも、大筒(大砲)や鉄砲で遠距離からの射撃を行ったりしました

       「北条氏の安宅船

       大きさは、後世に書かれた軍記物によると、長さが約24m、幅が約6mもあった

       ようです。また、一人漕ぎの小艪が50丁立てであったとされることから、漕ぎ手

       だけで50人、また大型の舵を操る人や戦闘員も乗り込むことから安宅船1艘に

       つき100人以上が乗り込んでいたと思われます。このようなことから、安宅船は

       後世の水軍書において「海上の城」とたたえられました。

 

             「長浜城と北条水軍」いかがでしたか

               北条氏ゆかりの地今度はどこに行くかお楽しみに 

 

            平成27年3月 整備工事完了 5月にオープニングセレモニーを

              予定とか・・・・ 鉄砲隊が昔さながらとか***是非お越し下さい。

            長浜城跡に登る前に立派なで殿様 姫気分を***                                                       

2014年11月 9日 (日)

北条美恵子のブログ

        長浜城と魅力

Cimg0464_3   ○長浜城と北条水軍

      長浜城は戦国時代に関東一円を治めた北条氏

      (後北条氏)の水軍基地「重須湊」を守るための

      城と考えられています。築城は沼津三枚橋城と

      ほぼ同時期(戦国時代後半)で、南下してくる武

      田軍に対する備えとして築かれました。

      天正7年(1579年)武田氏と北条氏との同盟関係が破棄されると、駿河国と伊豆

      国、相模国の境に位置する沼津は両氏の戦いの場となりました。Cimg1491

   9月3日に出された北条氏の書状には「これま

   で同盟関係にあったにも関わらず、武田氏が

   沼津に城を築いた」と非難しています。この

   武田氏によって造られた城こそが沼津三枚橋

   城でした。
   

  長浜城から沼津三枚橋城を見る     こうして長浜城と沼津三枚橋城はわずか10

                           kmほどの距離でにらみ合う関係になりました。

    長浜城には殿様が住んでいたわけでは、ありませんでした。発掘調査で判明した

    情報によると、海側に対して見通しのよい城であったと考えられます。

    又北条水軍の侍大将を呼び寄せて、安宅船(あたけぶね)という大型軍船を10艘

    もそろえたと伝えられていることを合わせると、長浜城は「見張りの場」そして「船

    掛場」として機能を備えた城だったのでしょう。

  

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