八王子城は関東屈指の山城
私のブログ待ってて頂き申し訳ありませんでした。念願だった八王子城跡に行って来ましたよ
歴史の転換となる合戦の舞台
八王子城は、小田原に本拠をおいた後北条氏の、三代目氏康の三男、北条氏照が築いた山城です。
八王子城跡は戦国時代末期の山城の特徴をよく残し、歴史の重要の舞台となったことから、2006年日本100名城の1つに選ばれました
1992年~の発掘調査では、八王子城城主北条氏照のやかた跡がみつかっています。
はじめ滝山城(170m)に本拠を構えていましたが豊臣秀吉との戦にそなえるため敵が攻めにくく、少人数で守れる八王子城を築いたといわれます。八王子城は(460m)複雑な地形を利用して築かれました。
八王子城は、北条の城のなかでも大きな規模をほこり、重要な城でした。
戦国大名の暮らしぶり・・・
御主殿を築き・・・館あとからは中国製の磁器、珍しいものではヴェネチア産(現
在のイタリア)のレースガラスが見つかりました。どうしてヴェ
ネチアのレースガラスのような高級なものが氏照のもとにあるのか・・・一説によると、織田信長の宝物であったようです。では、信長が持っているものが何故あるのか・・・八王子城の裏山に大鷹がいて、鷹狩りの鷹を信長に献上したのではないかといわれます。 (ヴェネチアグラスは21世紀でも世界の宝物です。ほかのガラス職人には、企業秘密のため教えないそうです。普通は一重ですが、二重になっている間にレース模様が入っている(ヴェネチア製)表も裏にもつなぎめ無しで不思議な技術にビックリしました。
430年前のヴェネチアグラスの破片34枚が見つかった。
戦いばかりしていたイメージの強い戦国大名ですが、一方で文化的な生活も営んでいたようですね。
天正18年6月22日夜~23日何が起こった!!
天下統一をすすめていた豊臣秀吉は
ついに北条と対決することになります。
前田利家と上杉景勝のひきいる数万の大軍が八王子城にせまっていました。秀吉は前田利家に小田原城で籠城を続ける北条氏にたいするみせしめとして八王子城を全滅させるよう命じた。この時氏照は主力部隊をつれて小田原城にたてこもっていたため、八王子城にはわずかな留守部隊しか残っていませんでした。こうして決戦のひぶたがきられたのです。豊臣勢は圧倒的な兵力にものをいわせ、攻め込みました。しかし、八王子城は攻めにくく少ない兵 力に 予想以上に抵抗にあいました。しかし決戦の末 曳橋
八王子城は落城した。
攻められにくい工夫・・・・
① 曳橋 戦いの時取りはずせば、敵が渡れない、当時の曳橋はちゃちなものであった。 曲輪の出入り口。直進できないようにする などして、侵入しづらい工夫がされている。 当時としては、安土城の虎口が日本一であった。奥行も長い。しかし八王子城の虎口はそれよりも3倍も5倍も豪壮である。曳橋を運よく渡り終えた兵は虎口に到達して上を見たとき戦威を喪失させたという。 この戦いからは逃げることができた・・・・ 豪壮な虎口 なぜなら兵は95%以上百姓の息子をかきあつめた。戦いに出してくれれば、今年の年貢は免除するということだった。昔の侍の平均身長は5尺で次の戦いにのぞむのは肉体的に無理があったという。 北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は名実ともに天下統一を成し遂げます。 そして戦国時代という一つの時代が幕をおろし
② 虎口八王子城落城は戦国時代を終りにするきっかけとなった
御主殿に火がはなたれ、逃げ場を失った者たちは自害したといわれています。八王子城の落城は北条氏照の耳にも入った。八王子城落城ののち北条氏は降伏し、小田原城は豊臣秀吉にあけわたされた。
そして・・・氏照は、兄の氏政とともに秀吉から切腹を命じられました。こうして5代続いた北条氏は滅亡したのです。
冠木門(かぶきもん) たのです。
八王子城跡に行った日は素晴らしいお天気に恵まれ紅葉も少し残っており、
ガイドさんのガイドもすばらしく、楽しかったですよ。是非行ってきてください
八王子ラーメンのお店が見つからず残念でしたが・・・スーパーで八王子インス
タントラーメンを買ってきて食べました。美味しかった(v^ー゜)ヤッタネ!!
北条五代探訪記続きますよ~
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私も八王子城跡を見学に行きましたが、特に虎口の壮大さには圧倒されましたね。全く同感です。
投稿: うじ政 | 2014年12月19日 (金) 18時13分