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2014年12月24日 (水)

貴重な中世の山城 山中城跡

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皆さんこんにちはo(*^▽^*)o

足場の悪い雨のなか山中城跡に行って来ましたCimg1785


 日本百名城 山中城跡

 山中城跡は箱根西麓の尾根上に築城された山城です。城の範囲は東西500m、南北1000mに及びます。 昭和9年国の史跡として指定されています。

 山中城は、後北条氏が築城

  山中城は、戦国時代末期の永禄年間(1560年代)に、小田原に本城をおいた後北条氏が築城しました。その後天正17年豊臣秀吉と不仲となった、北条氏政は、秀吉の小田原攻めに備え急遽掘や岱崎出丸等の整備、増築を行いました。 しかし・・翌天正18年(1590年)3月29日増築が未完成のまま、70000ともいう豊臣軍の総攻撃を受けました。北条軍は推定4000で、必死の防戦もかいなく鉄砲と圧倒的兵力の前にわずか半日で落城したと伝えられています。

 山中城の戦い  1590年(天正18)3月29日

戦いの始まるその前・・・  秀吉の小田原平定がはじまる

豊臣秀吉が自ら3万2000の直属軍を率いて京都の聚楽第を出陣したのは1590年(天正18)3月1日である。秀吉の甥秀次はそれより前に2万の軍勢を率いて出陣しており、3月5日には駿の三枚橋(沼津)まで進んでいた。27日に秀吉も三枚橋に到着し、秀吉、秀次、それに徳川家康・織田信雄が加わり、軍議が開かれた。最初の攻撃目標を北条氏側最前線の城である山中城とし、早くも翌28日、山中城とその周辺の視察を行っている。山中城の中を東海道が貫通しているため、東海道を通って小田原に向かう以上、山中城はどうしても落とさなければならなかったからである

 岱崎出丸での戦い

  1590年3月29日 秀次隊を先陣とする豊臣軍の攻撃が始まった。戦いは本城部分、つまり主郭の方ではなく、岱崎出丸とよばれる出丸部分ではじまった。攻撃したのは、中村一氏・山内一豊・堀尾吉晴・一柳直末らで、城兵が盛んに鉄砲を撃ちかけたため、攻める側も容易に進めず、大将の一人一柳直末は鉄砲にあたって討死している。こうした、城攻めの臨場感あふれる描写が可能なのは、中村一氏隊の一番槍をつとめた渡辺勘兵衛という部将が「渡辺水庵覚書」という詳細な記録を残してくれていたからである。                      

 三の丸・二の丸落ちる

 なんとか岱崎出丸を落とした豊臣軍は、次に三の丸の攻撃にかかった。先陣として突入したのは、渡辺勘兵衛であり勘兵衛に続いた4人はたちまち鉄砲に撃たれ討ち死にしている。三の丸を落とし二の丸に攻めかかった。 勘兵衛は大きな杉の木にのぼり西の方をみて広間に200人ほどの武士がいて守備していたため、本丸だと思い攻め込んだとしている。

 西の丸落ちる

 渡辺勘兵衛が本丸だと思ったところは実際は西の丸だったが、城将松田康長らはそこを守っていた。防備の点で、本丸よりも西の丸の方を重視していたのである。渡辺勘兵衛がそちらを本丸と勘ちがいしたのも当然だったのかもしれません。豊臣軍はその西の丸に殺到した。槍によるたたきあいがしばらく続きついに豊臣軍が攻めのぼり籠城兵は掘に落ちていった。松田康長も首を落とされてしまい、山中城はその日のうちに落城した。

 掘障子に守られた山中城

 山中城は本丸・二の丸・三の丸・西の丸などを中心とした主郭部分と、出丸部分にあたる岱崎出丸とからなつている。 城の随所に、北条流築城技法などとよばれる掘障子が掘られている                           

Cimg1791 掘障子とは、障子掘と畝掘のことで、堀底に畝のように堀り残しの部分を設けており、1列に並んだものを畝堀という(左の写真)

2列以上のもので、障子のさんのように見えるところから障子堀という(下の写真)

敵によって堀底を道として利用されないための工夫でもあり、また落ちると容易にはいあがれないようになっていて、まさに蟻地獄をおもわせます。

 現在は畝堀や障子堀は崩れやすいため芝で                         Cimg1803_2
覆われています。当時は丸坊主の赤土の山で堀も現在より1m位深く、畝も今の半分の幅でした。堀は、から堀で赤土でつるつるして落ちたら容易にはいあがれなかったようで、狙い撃ちできたようです。
今の時期は芝は枯れて綺麗ではありませんが緑になると美しい景観がみられます。

 山の中に・・・水?

Cimg1787          箱井戸  山中城将兵の飲料水          
                                                                    

Cimg1831_2                                       田尻の池 馬のための水 

 山中城と同じ日のもうひとつの戦いとは

山中城の戦いがくり広げられた同じ3月29日、もう一つの防衛拠点である韮山城も攻められているが、韮山城の方は容易に落ちなかった。                               

山中城側の北条氏政・氏直父子としては足柄城ー山中城ー韮山城を結ぶラインで豊臣軍を防ぐ構えをしていたので、特に東海道が通る山中城は重視した。というより、東海道を押える形で山中城が築かれたといった方がいいかもしれない。東海道が山中城の中を通るしかけとなっていた。

 敵味方の武将の墓

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  三の丸にある宗閑寺境内には、城主松田康長、副将間宮康俊などの墓や、隣には豊臣方の武将一柳直末の敵味方の武将の墓がひっそりと苔むして並んでいます。

 

   山中城の戦い どうでしたか?おもわずあつく語らせて頂きました(・∀・)イイ!

    400年間埋もれていた山城の発掘調査を、昭和48年から開始して現在では山中城   
     
    史跡公園として開放されていますよ。芝がグリーンの季節に是非お出掛けください。

    畝堀・障子堀にはビックリしますよ。

    次の北条五代の探訪記お楽しみに  


                                                                           

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